かぜがまわるとき
大学に通うため、私は祖父の家にお世話になっている。
小学生のころはお盆や正月に、よくこちらへ遊びに来ていたけど、
中学からは部活も忙しく、何かと理由をつけては、母の帰省に付き合うのをやめていた。
私がこちらの大学を受けると言ったとき、父と母は、祖父の家に下宿するという形なら、という条件で許してくれた。
そしてこれが、大学生になって初めての夏休みだ。
リーンと遠のく風鈴の音を聞きながら、畳に横になって求人情報を眺めていると、
するりと障子が開いて、しわのある、色白い足が見えた。
「珠江(たまえ)、これおやしろさんとこ、持って行ってあげ」
甚平をゆったりと着た祖父、惣之助(そうのすけ)が、手に持った笹包みを、私に見せるように持ち上げた。
「またお団子?」
起き上がって包みを受けとると、手に重みが伝わる。
「私のぶんは」
やはり働くのなら、報酬がないと。
毎度のことだけど、一応確認すると、惣之助は何も言わずにうなずいて、間をおいてから「台所」とだけ言った。
「はいはい。じゃあ、行ってきます」
「珠江」
すれ違うとき、祖父に、こちらも見ずに呼び止められた。
「日があがりきるころには、おやしろさんとこから、帰ってき」
毎度だ。
毎度、惣之助はそう付け足す。
私も慣れてきて、口の中でウンと言うと、祖父を後にした。
小さい家庭菜園のある庭の、竹で組まれた裏戸口をくぐって表へ出ると、坂を見上げた方向に、やわらかい日差しが遠い山脈の向こう側で、照り始めているのが見える。
じりじりと鳴き続ける蝉が、暑い午後を連想させて、私は顔をしかめた。
うちの……というより、祖父の家では、「朝」が早い。
山ぎわがぼんやりと明るくなるころ、祖父は起床する。
「下宿の身なんだからおじいちゃんのご飯くらいはつくりなさいよね」
母にそう釘を刺されていた私は、必然的に祖父の生活様式に合わせて暮らすことになった。
早めの朝食を私ととったあと、祖父はいつも手のひらに乗るくらいの笹の包みをぶら下げて、
どこかへ行っているようだった。
会話自体あまりしないから、どこへ行っていたのか知らなかったけれど、
私が夏休みになって家に居るようになると、惣之助は私にお使いを頼むようになった。
いや、正確には私の夏休みが始まったら、ではなくて、彼が一度夏風邪をひいたあとだったかも知れない。
「おやしろさん」のところへ、笹団子をお供えするお使いを頼むようになったのは。
朝日の迫る東の空に背を向けて、両側を木に覆われた坂をくだりきると、畑野が視界一面に広がる。
何もさえぎらない空を見上げれば、ずいぶんと田舎の大学を受けるんだね、と高校の友人に何度か笑われたのを思い出す。
ただ私は、都会へ出たいとかいう思いもあまりなかったし、じっさい大学が建っているのは、ここよりももう少し街のほうだ。
この辺りには寂れた無人駅しかなくて、その駅から上って5つめの駅で、また別の路線に乗り換えなくてはいけない。
本当は通学に便利な、少なくとも路線を乗り換えなくてすむような場所に暮らしたかったが、
一人暮らしを両親が許さなかったのだから仕方がない。
惣之助の言う「おやしろさん」があるのは、その小さな無人駅の前にある、井染神社だ。
通学で通い慣れた駅までの道を歩きながら、散歩ですれ違う近所の志津子(しづこ)おばあさんに会釈する。
「えらいねえ、今日もお参り?」
スポーツウエアに身を包んだ志津子さんを見ると、うちのおじいちゃんとは違うなあと思う。
「ええ、まあ、またお団子です。それより、毎朝散歩なんて、元気ですね、志津子さん」
「まだまだ体の動くうちはねえ、私も歩かないとと思って。そういえば惣ちゃんは、もう風邪は大丈夫なの?」
「惣ちゃん」とは祖父のことだ。志津子さんは祖父と幼馴染で、私も小さいころは彼女に遊んでもらった。
「医者にもらった薬を飲んだら、熱もすぐに下がりましたし、大丈夫ですよ。家にこもりっぱなしなのは、前からだし」
冗談めかしてそう返すと、一瞬、志津子さんの目が暗い色を映した。
「……心配ね、なにせこの歳だから。何があってもおかしくないでしょう」
「……そんなこと言わないでくださいよ、まだまだ元気でしぶとくいくって、前言ってたじゃないですか。
おじいちゃんだって、今日明日でどうにかなるようには見えないくらいピンピンしてるし」
努めて明るいふうに言ってみたが、志津子さんは「らしくなく」、ふっと笑んだだけだった。
「まあ、なるようになるだけね。と、ごめんねえ、引き止めちゃって。もう30分もしたら日がのぼりきるんじゃないかな」
志津子さんの視線を追って振り返ると、空がさっきよりも白さを増している。
「あ、じゃあ、このへんで」
「またうちに遊びにいらっしゃいねえ」
* * *
井染神社には、鳥居が二つある。
春になるとにぎわう、桜の並木道のおわりにひとつと、
その鳥居をくぐって石階段をのぼりきったところに、ひとつ。
そして「おやしろさん」は二つ目の鳥居の向こうに広がる境内の奥に、ひっそりと建っている。
実を言えば、私は鳥居に挟まれたこの階段をのぼるが苦手だ。
階段を両脇から覆う、深い木々の落とす陰が、ひんやりとした朝の空気をさらに色濃くする。
そして、だれかに凝視されているような、もしくは既に捕らえられて観察されているような、
そんな気配が背筋にツっと走るのだ。
つめたい空気をすう、と吸って、ゆっくりと石段に足をかけていく。
小さいころも苦手だったけれど、大きくなったからといって、その不気味さが消えるわけでもない。
小さいころは、目をぎゅっとつむって、母や祖父の手にしがみつきながら通ったものだ。
一度、夕刻に神社を訪ねたことがあって、そのときは耐えかねて、この階段を一気に駆け下りた。
そうしたら、「走るな」と低い声がして、驚いて振り向くと、階段の上から、祖父が白い顔で、こちらを睨みつけていた。
段を上りきると、石畳の参道の先に、大きいとは言えないけれども立派な拝殿が構えている。
「今日も朝早ようから、ごくろうさま」
社務所のおじさんがにこりと頭を下げ、ついと握りこぶしをこちらへ差し出した。
「アメなんだけど、いるかい? 昨日参拝に来てくださった方にもらったんだが、わたしは歯が悪うて」
「じゃあ、もらいます」
てのひらを広げると、おじさんの握っていたアメが3個載せられた。
全部ハッカ味だ。
おじさんにお礼を言って、手水を済ませると、本殿とは離れた、境内の隅にある小さな社の前に立つ。
こういう、神社の中にある小さな社のことを「枝社(えだやしろ)」と言うそうだ。
何を祀っているのか知らないが、いつも両脇には新鮮な花が生けてあり、私が前回供えたはずの包みは、次に来るときには無くなっている。
さほど礼儀もわきまえていないので、お供え物を置いて手を合わせるだけで済ませてしまうと、踵を返した。
空を見ると、完全に明るくなっていた。
神社自体は森に囲まれているので、日の動きがわかりづらいが、これは多分、日が昇ってしまったのだろう。
鳥居をくぐって階段を下りようとしたとき、さっきアメをくれた社務所のおじさんに「ちょっと」と呼び止められた。
「くれぐれも、走らないでおいてね」
そう言うおじさんの顔は神妙で、私がなんとも返せないでいると、はっとしたように「足もと、崩れやすくなってるところあるから」と付け足した。
注意された通り足もとに気をつけながら、神社を背にして、階段を下りる。
蝉の声がじわじわと、降ってくるようだ。
「落としたよ」
急に背後から肩をたたかれて、振り向くと、線のほそい男性が、口元に微笑をたたえて佇んでいた。
彼は私の手を広げさせ、その上にハッカのアメを載せると、
「きみ、よく来る子だよね」と、微笑を動かさずに聞いた。
短く切られた黒髪に、着流しの姿が、ほそい体を、さらにか弱いものに見せていた。
彼は、名前を井染と言った。