井染さんは「別に、この神社の者ではないんだよ」、と楽しげに言った。
「呼び方が同じだけ。おれはただの駄菓子屋だから」
そしてアメを握る私の手をちらりと見やって、
「そのアメも、うちで売ってるのだよ」
ところで名前は、と尋ねられたので、苗字は言わずに「珠江」とだけ言った。
彼は一瞬、おやという顔をしたが、ここでも微笑を動かさずにうなずいて、
「そう、珠江さん」
と確認するようにつぶやいただけだった。
「きみがここに来るの、よく見かけたんだ。おれはここの森を探検するのが好きでね」
井染さんは静かに話す人で、背が高いのに威圧感もない。
ただ惣之助と同じくらい肌が白いので、触ったら陶器のようにつめたいのではないかと思った。
そろそろ「日がのぼりきるまでには帰れ」という祖父の言葉が気にかかってきて、
気がそぞろになっていたのを会話の受け答えから感じたのだろうか、
井染さんは「じゃあ、また会おうね」と言ってさっと話を切り上げると、階段を上らずに、脇の森へと姿を消した。
* * *
志津子さんの家に上がったのは小学生以来だったが、あのころと変わらず、
箪笥の中のようなにおいが立ち込めている。
フクロウの描かれた暖簾を押して、うちより少し狭い台所に立つと、
志津子さんと自分の分の麦茶を用意した。
「覚えてる? あのかざぐるま」
かざぐるま――風車。
からん、と氷の崩れるのに目をやってから、志津子さんは中庭を見やった。
中庭いっぱいに、まぶしい陽光がふりそそいでおり、まるで闇の世界から切り取られたように浮かんで見えた。
その中庭をぐるりと囲んだ向こう側、ちょうどこちらと向かいの部屋の閉じられた窓から、
花瓶に挿された風車の羽根が見える。
「あれが欲しいと、駄々をこねられて、ちょっと困ったねえ」
覚えている。
志津子さんがあのとき、こうやって、子どもにはそれとわからないくらいの、ささやかな苦笑いを浮かべたことも。
あとから、あの風車は、神棚のカミさまにお供えするために、
志津子さんの夫――今はもう亡くなっている――が神社から譲ってもらったものだと知った。
「なつかしいわねえ」
ほこりをかぶった風車。和紙で作られた茜色の羽根はそのせいで白んでいる。
いつだったか、正確に自分の年齢を思い出せないけれど、あれを本当に手に入れたい時期があった。
まるで干上がった池の鯉が、水を求めるみたいに。
志津子さんの家は木造だから、壁や床がしっとりとつめたくて、自分が夏の中に居るのを忘れそうになる。
蝉時雨もどこか遠くで流れる渓流のように、静かに耳に届く。
「あ、きゅうりが生ってる」
雲が日差しを覆ったのか、白く輝いていた中庭にふっと影がおちて、
北側の窓につるされたネットをきゅうりのツタが登っているのが、はっきり見えた。
スーパーでは売っていないような大きさのものが数個、生っている。
志津子さんは、こことは別に大きな畑を持っていて、そこは農協に持っていく野菜を育てているから、
こうして屋敷の中で育てるのは、自分で食べるために植えたものだという。
「今年もうまく実ってくれたわ。珠江ちゃんところは、どう?」
うちにもささやかな家庭菜園があって、惣之助が世話を見ている。
「ミニトマトと茄子が取れごろかな。うまく育ってると思います」
ときどき食卓にも、庭で採れた夏野菜を出す。採れたての野菜は熱を加えて調理するよりも、冷やして塩を振って食べるのがおいしくて、いつも生野菜ばかりになってしまう。
「茄子が、焼き茄子かカレーに入れるか、くらいしか料理法知らなくて」
焼き茄子も夏野菜カレーもおいしいのだけど、自分の料理のレパートリーをもう少し増やせたらいい。
風が出てきたのか、風鈴の音が頻繁に響いて、より一層部屋が影の中に落ちた気がした。
「風車、欲しい?」
ふと、志津子さんが言った。
別にもういらないのだけれど、そのことを言い出す前に、志津子さんは続けた。
「神社でお祭りあるでしょう、たぶん今年も配ってると思うよ」
「志津子さんは? 夏祭り、行くんですか」
麦茶を飲み下すと、香ばしい風味が鼻に抜けた。
志津子さんがよく町内会のお友達と一緒遊びに行くことを知っていたので、
祭りもそうだろうと、何とは無しに聞いたのだが、彼女は寂しそうに目じりを下げた。
「今年はねえ。どうしようかと思ってね、もしかしたら行かないかもね」
志津子さんの大きな黒目が私を凝視する。惣之助の細い目は、何も見えていないようで、
だからこそ表情も読み取りづらいのだけど、志津子さんの瞳はそれとは別の意味で、
何を考えているのかわかりづらい。
「だっておばあちゃん、珠江ちゃんがボーイフレンドと一緒に居るところ見たら倒れちゃいそうだもの」
ふ、とおどけた雰囲気を放った志津子さんに合わせて、私も力を抜く。
「ええ? 居ない居ない」
「まあどのみち、華子さんもフミさんも、今年はお孫さんと一緒に行くって喜んでたの。人ごみも得意なほうじゃないから今年は……」
「じゃあ、よかったら一緒にどうです」
志津子さんが言い終わらないうちに急に切り出したものだから、彼女はえっと目を見開いた。
「誘ってる友達もいないし、それに皆、街のほうだから、わざわざこっちのお祭りには来ないって言ってたんです。
交通費がかさむから」
確かに私の友人どもは、そう言い切った。
それに祭りなら地元のところに行くとも言っていたし、
家族も仕事柄、夏祭りの時期にはこちらへ来られないようだった。
私は縁日だけ一人で見に行って、それで帰ろうと思っていたから、
もし志津子さんと一緒に行けるのならそっちのほうがいいなと思ったのだ。
志津子さんはゆっくりまばたきをして、にっと笑んだ。
「……そう? それなら一緒に行こうか。楽しみになっちゃった」
私もつられて笑い返した。
* * *
「あ、井染さん」
「おはよう珠江さん」
一週間に3,4回行く程度だけれど、すっかり習慣となった朝のお参りの帰りに、
神社の階段のところで、毎回と言っていいほど、井染さんと出会う。
最初に白いと思った肌は、やはりいつまで経っても白くて、もっと陽に当たればいいのにと思う。
見た目、年齢は25前後に見えるが、落ち着いた話し方や着流し姿から判断すると、もっと上のようにも思われる。
「今日もちょっと話して行かない? 珠江さんはいっつも急いで帰るけど」
穏やかに話す声に、少し寂しげな情が乗っているのがわかって、
私は空を見てまだ日が昇りきるのに時間があるのを確認してから、ゆるゆると頷く。
近頃はいつもそのパターンだ。
ふたりで石段に腰掛け、夏休みはどうとか、まあまあだとか、そんな会話をする。
「思ってたんですけど、井染さんて、そのつっかけで森を探検してるんですか」
普段から和装をしているのに、こだわりがないのか何なのか、下駄ではなくて、サンダル地の楽なものを履いている。
以前、よく森を探検していると言っていたから、その履き物で森の中を歩くのかと疑問だったのだ。
「基本的に、窮屈なのが苦手でね」
井染さんは苦笑して、片足を見せるように、前へ投げ出した。
「最初のころはよく怪我をした。よく足もとを滑らせてね。
枝とか小石とかが、ここ、足の小指の外側とか、足首をひっかくんだよ。大分前の話だけど」
足も顔と同じかそれ以上に白くてひやりとしたが、よくよく見てみると、わずかに赤い線状の跡が残っている。
くるぶしにも比較的新しい生傷が走っている。
「でも慣れれば気にならない。それに最近、おれの家から森を抜けて、この階段に出る最短ルートを見つけた。
やはり森探索は面白いね」
雀の声がどこからか聞こえた。
疎らだが、高いところからは蝉の声もして、ひんやりとした朝の空気に溶け込んでいる。
木々に覆われているために、境内へと続くこの階段にはいつも影が落ちていて涼しい。
石が湿っているのが、座ったところからじわりと伝わる。
「いつから森探検してるんです? この森って結構広そうですけど」
「広くない」
間髪入れずに、いつもよりも張った口調で返されて、
普段感じない圧力を感じて、私は言葉を詰まらせた。
それに気がついたのか彼は口の中でうめくように声を絞ってから、「見た目ほど広くはないんだよ」と語気を緩めて言い直した。
「探検は、とても小さいころから。何歳だったかは覚えてないけど、幼かったのは覚えているよ。そのころから、つっかけだった」
つっかけ、と言う辺りで彼は面白そうに、私に目配せした。
「もう最近ではほとんど歩きつくしたってところだよ。未だに発見があって面白いけど、あのころほど広くは感じないんだ、もう」
井染さんが投げ出した足を引っ込めるのを見ながら、私は祖父の家庭菜園を思い出した。
小さいころはあそこが大きな庭に見えたものだ。
自分の体が大きくなるとそのときほどには広く感じないし、
狭いと感じるのは何も空間的なことばかりではない。
年齢を重ねると、未知の領域が減ってしまう。
探せば確かに、あのころ咲いてなかった花が植わってるかもしれない。でも、それだけだ。
多分、井染さんが言いたいのも、その感覚と似たようなものなのだろう。
しかし神社を覆うこの森が、鎮守の森という聖域だということくらいは、知識の浅い私でもわかる。
「カミさまのバチが当たっても知りませんよ。立ち入り禁止でしょ、この森」
呆れたふうに目をやれば、井染さんは頬を掻いて苦笑した。
「まあ、見つからなければいいのさ、見つからなければ」