* * *
大学生の夏休みは、自分から忙しくすれば忙しいし、予定を立てなければそのまま流れてしまう。
私は後者で、一応休暇が始まってからアルバイトを探しているが、どれも街中の求人ばかりで、近場には無い。
ただ私は、アルバイトをしないほうがいいのかもしれない。していなくてよかった。今回ばかりはそう思う。
「珠江……水」
乾いてしわしわになった口もとに、ストローの先を近付けると、
浅い呼吸を繰り返してから、惣之助はやっとの思いでというふうに、それをくわえた。
祖父は今年二度目の夏風邪にかかっていた。
こく、こくりと水をくだす細い喉ぼとけが、つらそうに上下する、
それを見るだけで何か不安な気持ちになる。
「おかゆ作ったんだけど、食べられそう?」
惣之助は濡れた目を細く開けて、ウウと唸った。
「大丈夫、冷ましてあるから。寝たままだと危ないから、つらいだろうけど、体起こして」
以前惣之助が夏風邪で倒れたときに呼んだ、町内の介護ボランティアのおばさんがやっていたのを思い出しながら、
上半身を助け起こした。
ふわりと、老人特有の皮膚のにおいが鼻をかすめる。
それを気取られては悪い気がして、ごまかすようにおかゆを口へ運ぶ。
噛んで、しっかり飲み込むのを確認してから、またもう一口を運ぶ。
高校生までの自分では考えられなかった。祖父の世話をするなんて。
老人に関わるのは面倒とさえ考えていたのに、最近ではそういう思いもない。
年配の人を見ても、老人だと思わなくなったのは、どういう変化なのだろう。
惣之助の溜飲する音に耳を傾けながら、部屋を見渡す。
祖父の部屋はあまり入ることが無かった。
床の間には水墨画の掛け軸が垂れており、祖母の写真がひとつ飾られている。それ以外に装飾はない。
傘のついた蛍光灯は埃をかぶっていて、そういえば常夜灯が点かなくなったと、こぼしていたことを思い出す。
今度母たちが帰省したときに付け替えてもらおう。
それにしても梅雨時でもないのに、部屋全体がじめじめして、肌にまとわりついて気分が悪い。
障子戸を開け放って、一度空気を入れ替えても大丈夫だろうか。
祖父はときどき熱に浮かされて、祖母の名前を呼ぶ。
ときどき思い出したように、私や母の名前を苦しげに呼ぶ。
そして一番奇妙なのが、何かに許しを請うように、小さく背中を丸めて、手を合わせ、震えることだった。
志津子さんの言葉が脳内を行ったり来たりするのは、私も弱気になっているからか。
今日明日でどうにかなるようには見えないと言ってしまったが、今目の前の惣之助を見ると、
どうにかなってしまうようにしか見えなかった。
この状況で夏祭りを楽しめるほど、私は強くない。
「おじいちゃん、私明日のお祭り行かないからね。志津子さんにもあとで電話する」
そっとそう告げると、おとなしくおかゆを食べていた祖父が、かっと見開いて、私の手を払いのけた。
「いかん」
払いのけた拍子にさじが転がって、おかゆが布団と畳にこぼれた。
それを拭こうとする手を、祖父にさえぎられる。
「いかん。……いかん」
眩暈が襲ったらしく祖父はふらりと枕にうまった。
「いいから、お医者を呼んでおき……カミさんとこで、お守りもらってこな、いかんから」
おかゆはもういい、というふうに、祖父は向こう側へ体を返してしまう。
何も言い返すことができずに、こぼれたご飯を拭いて、薬と水を枕元に準備していると、
掛け軸に描かれた鷹が身じろいだ気がして、心臓が跳ねた。
じっと見ると、鷹の鋭い眼光がまるでこちらを射抜いているようだが、床の間に落ちた影の加減だろう。
ふと、背後につめたい気配を感じて振り向くと、欄間の彫刻が目に入った。
彫られた鶴と亀が、ケタケタとうごめいて、こちらに目を向けて嘲笑しているように見えた。
じっとりと汗ばんだ体を持ち上げ、私は障子戸を開け放した。
* * *
祭りがその日の夕方と迫った日の早朝、まだ祖父の容態は悪かったが、
どうしても「おやしろさん」には行けと言って聞かないので、冷蔵庫にあった笹の包みを手に、
私は足早に階段を駆け上っていた。
普段よりもさらにおざなりにお参りを済ませると、苦笑ぎみの社務所のおじさんと目が合ったが、
目をそらして階段を下りた。
「今日は一段と急いでるね」
来たときには気づかなかった、井染さんが隅に座ってこちらを見ていた。
「おはようございます。私、今日は本当に時間がないから」
「まあ、待って。大丈夫だから」
手首を捕らえられて、私は初めて、この人の穏やかな口調に苛立った。
「大丈夫って、何が!?」
不愉快な想いをそのままに吐くと、井染さんはそれでもゆったりと笑みをたたえた。
何も知らないくせに、何も知らないくせに、何も知らないくせに。
その言葉を飲み込んだ腹の底が熱い。
井染さんはなおも手を離さずに、色素の薄い目で、私をうかがった。
「今日の夕方からのお祭りには来るよね? それだけ確認したくて」
「行きますが、あなたとは行きませんよ。それに、祖父が心配だから、すぐ帰ります」
何も付け入られないように、隙間なくそう言うと、「そう、来るんだね」と言って、やっと、私の手首を開放した。
私は井染さんに見向きも挨拶もせずに、階段を駆け下りた。
背筋に朝のつめたい空気が走り抜けて、肌を冷やした。
* * *
焼きとうもろこしの醤油の焦げたにおいが、境内の外まで漂っている。
「そう、惣ちゃんが心配ねえ。風車だけもらったら、帰りましょうか」
「はい、そうしようと思います」
私に浴衣を着せると張り切っていた志津子さんだったが、事情を話すと、表情を暗くした。
かかりつけの医者に電話して面倒を見てもらえることになったときも、私がすぐに戻ると告げると、
お医者さんも少しほっとしたように、そうだねと表情を緩めたのだ。
鳥居に吸い込まれるようにして、人々が波のように次々と押し寄せてくる。
その波に呑まれながら私たちも石段を上った。
「どうして、風車なんです」
芋洗いのごとき人波に沿いつつ、隣の志津子さんに問う。
この行列は、境内の露天商へ向かう人と、配布されるお守りをもらおうとする人が入り混じっていた。
札や鈴だったらお守りとして理解できるが、風車を配るというのは珍しい。
「このあたりでは、風車はカミの依り代なのよ。ほら、七夕の笹あるでしょう、
あれもカミが一休みするための依りどころなの。
カミさまの休憩所を作っておくと、そこにカミさまがとどまってくれるでしょ、
そうすると家が守られるから」
志津子さんも誰かから聞かされたのだろう、そんな口ぶりだった。
「配るのは普通数年に一回なんだけど、このごろ不況だからか
、まあ、みんな不安がってるってことなんでしょうね、ここ3、4年は毎年よ」
役目を終えた依り代は神社に奉納しなければならないそうだ。
志津子さんはあの自宅の風車を大切に想ってるから、もらわないのよと言った。
やっと二つ目の鳥居をくぐって、境内の社務所の前まで来ると、拝殿まで数メートルだ。
社務所のおじさんと目が合って、互いに会釈を交わす。さすがに忙しそうで、声は掛けられない。
「そういえば、珠江ちゃんはここに来ると、いつもどこかへ姿を消しちゃうのよ」
思い出したように志津子さんがこちらを見た。
「小さいころ、よく来たでしょう。そのときね、みんなのお参りが終わるまで待ってるのが退屈だったのか、
すぐにどこかへ行っちゃってね、帰るころになるとひょっと戻ってくるの。
友達と遊んでたーなんて言って。こっちに来てから、そのお友達とは会えたの?」
「お友達……?」
全く記憶にないとも言いにくく、曖昧にうなずく。
こちらにもともとの知り合いは少ないから、友達ができたら覚えているはずなのだが、顔も名前も出てこない。
記憶をたぐり寄せているうちに拝殿が目の前にあり、志津子さんに倣って参拝をすると、
巫女さんから風車を受け取った。
竹で作られた風車で、持ち柄が長い。羽根の裏側には、魔除けの文字が書かれていた。
境内に入るのも一苦労だったが、人々の流れに逆らって引き返すのも楽ではない。
全身が汗で蒸される思いをしながら、やっと鳥居をくぐって階段に足をかけると、ぽんと肩をたたかれた。
「珠江さん」
井染さんが人を避けるように立っていた。
「珠江ちゃん? ……お友達?」
怪訝そうな志津子さんの声が背後から届く。
「友達」とは何か違う気がして、とっさに返事ができないでいると、
今日ばかりは浮いていない着流し姿の彼が、志津子さんにやわらかく笑んだ。
「ええそうです。井染です。お久しぶりですね、志津子さん」
はっと息を呑むのが聞こえて志津子さんを振り返れば、いつもの健康そうな顔色はさっと消え失せ、
目を見開いて酸欠の金魚のように口を開けたり閉じたりしていた。
「せっかくのカミ頼みでしたが、効果があったとは思えませんね」
「あ、……た、まえちゃん」
本当に息をするのを忘れている様子の志津子さんの目に、涙が溜まっているのがわかって、心臓がいやな音を刻んだ。
「呼吸! 志津子さん!」
涙をこぼしながら、志津子さんは震える頭を、横に振った。
口もとは「駄目」の言葉を形作っている。
「さあ、行こう」
井染さんに強く腕をとられ、つかまれたところがギリッと悲鳴を上げた。
「ふざけないで! 志津子さんが!」
穏やかな表情を崩さずに、ちらりと私を見ると、彼は疲れたような息を吐いた。
「大丈夫だから」
「またそれ!? 何が大丈夫だっていうの、頭おかしいんじゃないの!?」
「珠江は黙って付いて来ればいい」
呼び捨てで強い口調で言われて、私がひるんだ隙に、井染さんに強引に腕を引かれて、
体勢を崩した勢いのまま、森の中へと連れられた。
精一杯抵抗しながら、肩越しに振り返ると、胸を押さえて息継ぎをする志津子さんが、
人の波に呑まれて見えなくなっていった。