ずるずると引きずらて、枝や岩に幾度も足を引っかかれた。
前を向いて突き進む彼の顔は見えない。
初めてこの人を、ここまで憎いと思った。
お祭りの音はすぐに遠くなって、しんと深い緑に囲われる。
暮れ入る時刻だから、蝉もどことなく儚げに鳴いて、空の茜色を浴びている。
どうして、こんなことに。
急に立ち止まったと思えば、背中に痛みが走って、
私は大きな樹木に押さえつけられているのだとわかった。
井染さんの手が肩に食い込み、骨がきしんだ。
線のほそい体から、どうやってこの力を出しているのだろう。
夕空を背負って、私の顔を上から覗き込む彼の表情は、影になって読み取ることができない。
「覚えてる? おれのこと」
答えなんか聞かない。そういう聞き方だった。
「きみが小さいころに、おれたちは会っている。よく一緒に、この森で遊んだ」
覚えていない。そうすぐに返事できないのは、呼吸が整わないからか、
それとも、この森の土や木のにおいを懐かしいと思う自分が居るからか。
「おれは長いこと一人ぼっちだった。親も友達も居なくて、神々の仲間にも入れてもらえず、
ずっと、一人でここをさまよっていた。そんなときだ、珠江は階段から落ちた」
それならはっきりと覚えている。
惣之助に「走るな」と言われたとき。
あのとき、私は足を踏み外して、石段からすべり落ちたのだ。
「そのときの大きな音をたどって、見た。それが珠江だった。
大丈夫かと声をかけたら、泣きそうな顔で笑って、平気だと答えた。
珠江は、おれを無視しなかった」
「……ああ」
あのときの。
うっすら、記憶の端に引っかかっていた光景がある。何歳の記憶かわからなくて、
でも夢だとは思えなくて、隅に追いやっていた、ひとつの映像。
「イソメくん――そう名づけたのも、私だね」
あの転落事件のあと、彼と私はたびたび会っては、森で追いかけっこしたり木登りをしたり、
思いつく限りの遊びを試していた。
何て呼べばいいか聞いたとき、彼は嬉しそうに、「珠江が決めて」と言った。
だから私は、この神社の名前を彼に与えたのだ。
「名前をもらった。だからおれは『おやしろ』になれた」
イソメくんは人間ではない。その秘密を共有したのも、あのころだ。
家が駄菓子屋だとか、そういうのは、彼がもっともらしく私に近づくための、嘘だったのだ。
「わかったから、そろそろ離して。今は遊んでいる暇はないの。
おじいちゃんが待ってるし、志津子さんだって」
言いかけたところで、再び強い力で肩を押さえられた。
「もう、一人はいやだ。おれはこの森に閉じ込められている。鳥居の外へは出られない。
行かないで、珠江」
彼は縋るように、頭を私の肩口へ押し付けてくる。
「珠江が名づけて、おれを『おやしろ』にしたのに最初に気がついたのは、惣之助だ。
以来、ずっとおれが一人にならないようにお参りしてくれた。
でもあいつは、おれと珠江が顔を合わせないようにしていただろう」
「おじいちゃんをあいつだなんて言わないで」
「惣之助は、おれが境界にしか、人間の目に見える形で現れないことを知っている。
神社の鳥居もそうだ、あれは境界だ。
そして時刻。とくに夜の空気から朝へと切り替わる決定的な瞬間、そして太陽が沈み闇を連れる夕刻、
おれは一番力を持つことを許される。
日が昇りきるころまでには帰れと、言われていただろう。
あれは珠江をおれから遠ざけるための策だったらしい」
声に憎しみがこもったのが、いやでもわかった。
「まさか……」
惣之助の夏風邪が、ただの夏風邪ではなく、イソメが引き起こしたものだとしたら。
「まどろっこしいことをせずに、珠江を差し出せと、命令しただけだよ。
今年から珠江がこちらに来ることは、志津子が友達と話しているのを聞いて知っていた。
夏まで待ったが一向に珠江をこちらによこす気配が無いので、お願いした。あのときも体調を崩したな。
そうしたら何だ、一度で懲りると思ったのに、日が昇る前には帰れだなんて、すぐばれるようなことをするから、ああなる」
つまり祖父の体調不良は、二度ともイソメのせいということになる。
「最初に気がついたのは惣之助だと言ってたから……志津子さんも、知ってたんだね?」
イソメは顔を上げて、面白そうに私に目を合わせた。
「うん、そう。彼女はそういう勘が鋭い。そして妙に頭が鈍い。
おれは二人に言っておいたんだよ?
珠江が大きくなってこちらに帰って来たら、おれに捧げるように。珠江だって、そう約束したじゃないか」
なんということだ。
私は知らない間に、二人を巻き込んだ。
それも、この出来損ないのカミを創り出したのは、私だ。
「おじいちゃんと、志津子さんを、治して」
喉から声を押し出して睨み上げると、
彼は嬉しそうに私に抱きついた。
「うん、いいよ。その代わり、珠江はずっとおれの傍に居て」
「ここ、鎮守の森だよ。バチが当たるから、離れて。離れてくれないなら……」
「何ができる」
子供のいたずらを眺める大人のような、楽しげな声が耳にかかる。
「罰など、おれに与えられるものか。
志津子はカミ頼みしていたようだけど、あいつらも老いぼれだ、効かない。それに」
彼の骨ばった手が、私の髪を梳く。
「見つからなければいいのさ、見つからなければ」
駄目だよ。
そう訴えようとして、両足首に激痛が走り、目がくらんだ。
歯をくいしばって足もとを見ると、先ほど引きずられたときにできた擦り傷が、青く腫れ上がっていた。
「ああ、後から治そう。でもいいね、これでは歩けないのだろう。逃げられないね」
彼は、人間ではない。
「境界を越えちゃ、駄目だよ」
「もうおれを一人にしないで、置いていかないで」
彼は、完璧なカミさまでもない。
「イソメくん、お願いだから」
「そんなのは、おれが許さない」
だから、盲目だ。
「珠江、珠江、珠江、」
私を抱きしめる手が、体のあちこちに伸びて、私を求める。
「消えないで、行かないで、寂しい、」
肉を突き刺す手ごたえがあった。
「たま……え?」
彼の肉体がぎゅっと硬直したのが、私の体にも伝わる。
「血は、出ないんだね」
私の手に、力の限り握られた風車。
その長い柄は、彼の背中に埋まっている。
彼の体重が私にのしかかり、それを支えきれなくなって、ずるりと、二人とも地に崩れる。
うつぶせになった彼の下から這い出て、
離れたところに膝をついて、息を整える。
「なん……で……」
ぴく、と体を震わす彼は、目に、信じられないという色をにじませて、こちらを見た。
「あなたを創ったのが私なら、壊すのも私にできるでしょう、おやしろさま」
はっとしたように、彼の肩が揺れた。
「や……め、て」
涙をためてこちらを見つめる彼は、あのころの幼いままだ。
木々の間を通り抜けた夕日が、彼の体を細々と照らす。
「こわ、こわ……い、さむ、い」
「名前を返せ、って、カミさまが言ってるよ」
このときの私は、わかってもいないことが、わかったことのように口から出てきた。
まるで誰かの口を借りているような、容赦の無い言葉が。
「い、いやだ……」
「境界を越えるなと言ったのに、井染。さよなら、『――』」
* * *
「珠江、これ、カミさんとこ持って行ってあげ」
するすると障子戸を開けて、惣之助が差し出したのは、笹包みだった。
「私の分は?」
一応確認すると、台所にある、とだけ言われた。
そろそろ実りの悪くなってきた家庭菜園をひと通り見てから、
竹で組まれた裏戸口を通って通りへ出る。
上り坂を振り返ると東の空が、薄ぼんやりと明るんできたのが見える。
白みを帯びた空に背を向けて、坂をくだると、広がった視界に、いくつか畠焼きを行う農家を見かけた。
祭りの日、手にしていたはずの風車は無くなっていて、
多分あの雑踏の中で神社に落としてきてしまったのだと思う。
また来年もきっと配られるわよ、不況だから、と笑う志津子さんとともに、
風邪をひいた惣之助の世話をしに、早々に家へ帰った。
お医者さんは、薬がよく効いていると告げて、笑顔で帰って行った。
それから私は家庭教師のアルバイトを始めた。
おじいちゃんが倒れても面倒が見られるように、大分融通が利く。
今私が教えている高校生の子は、考え方さえ導けばできる子なので、そういう意味でも楽だ。
「おはよう、珠江ちゃん」
大きく手を振りながら、元気よくウォーキングしている志津子さんとは、よく会う。
「今日もお参り? えらいねえ」
「志津子さんこそ、元気ですね。おじいちゃんも見習えばいいのに」
「駄目ね、惣ちゃんは、もやしっこだから」
二人でふふふ、と笑い合う。
「と、早くしないと日が昇っちゃうわねえ。気をつけてね、珠江ちゃん。
時間と時間の間って、お化けが出やすいんだから」
「もうそういうのを怖がる歳じゃないですって」
「それもそうか。じゃあね、また遊びに行くから、惣ちゃんにもよろしくね。あ、あとバイト頑張って」
しっとりと夜の空気を漂わせたままの、神社の石段を上るのは、なんとなく苦手だ。
背筋に氷を流されたような、妙なつめたさが、指の先まで染みわたる。
惣之助の言う「カミさん」は、境内に入ってすぐ見える、拝殿に居るカミさまのことだ。
なんでもこの土地の守り神だから、お世話になりますって言って、挨拶しろということらしい。
「おはようさん。今日も朝早ようから、ごくろうさま」
社務所のおじさんは、いつもにこやかに私を出迎えてくれる。
「この笹団子、次に来るときには無くなってるけど、おじさん達が食べてるんですか?」
するとおじさんは困ったように頭をかいて、苦笑いした。
「いやー、それがね、わたしにもさっぱり。ここ閉めるころには無くなってる。
きっとカミさまか、悪ガキだね」
志津子さんに習った通りの参拝を済ませると、拝殿とは離れた奥のほうに、木の台がひっそりと置かれているのに気がついた。
「あれ、何ですか?」
「ああ、あれね、今まで枝社があったんだけど、夏祭りのときに、壊れちゃってねえ。
雷で打たれたみたいな壊れ方してたから、お客さんの誰かがバチ当たりなことしたんじゃないかなと思ってね」
確かに、残されている台にも、焦げ目のようなものが付いている。
「不思議なことに、中には何にも安置されてなくてね、何を祀ってたんだか思い出せない。
カミさまの名前も書いてないから、再建しようがなくてねえ」
おじさんは頭をひねりながら、まあ、またおいでな、と笑った。
鳥居をくぐろうとしたとき、カラカラカラと小気味のよい音がして、
振り向くと、今年奉納された風車が、拝殿の脇で、いっせいに回っていた。
階段のほうから、小さい足音が上ってくるのが聞こえて、その音を追ったが、姿は何も見えない。
ただ風邪が止んで、風車が回るのをやめたとき、
私がお供えしたはずの笹包みは、そこから無くなっていた。